痴の巨人、読書感想文を書く

病がかった「知」性が加速する読書備忘録

痴の巨人、バルザックを読む③~骨董室手形偽造物語~

1.経緯

 名編集に含まれる短編集であるため、拝読。

 

 

2.内容

 名家のバカ息子が都会で美人に入れ込んで手形偽造にまで手を付けてしまったため、忠実な家臣は、その火消しに奔走する、っていう話。

 

3.名フレーズ

「作家という人間は、その時代の年代記作家となることで、いやおうなしに多くの傷口にふれてしまう」p267

・事象を観察し、それを叙述する作業を行うさいに、事象の対象に忖度も限定もないならば、指摘の通りであろう。注意すべくは、忖度も限定もなければ、読み手は、往々にして満足しない点である。

 

「感謝の念を抱かれることを、巨額の支払いをなされたかのように思ってしまう、気高い心の持ち主というものが存在する。そうした人間にとっては、両者の心映えの調和と魂の自然の交わりとが醸し出すところの、あの甘美なる対等関係という感上のほうがよほどありがたい」p273

・これ、わたしのことです。

 

「もっとも熱烈なる革新者たちは平等など不可能であることを発見する」p287

・理想にもえつつ現実をみることは困難であり、現実を見つつ理想に燃えることもまた困難である。平等等の理想もまた現実に行動を起こす者からすれば、困難を伴うものと言わざる得ない。

 

「パリでは、最初の反応とは保護者ぶることでありながら、第二の、はるかに永続する反応とは、保護を受けている者を軽蔑することなのだ」p332

・パリに限らず、世界中の都会で、この構造がみられる。その理由は、世界中の都会が田舎から人を吸い上げるからであろう。彼ら彼女らは、ほとんど常に、保護の対象からはじまるのである。

 

「僕たちは「事実」から「思想」へと、荒々しい力から知的な力へと移行したんだよ」p338

 

「叔母、母親、姉妹というものは、自分たちの甥や息子や兄弟に対しては、いわば特殊な法解釈をおこなう」p363

・客観的に観察することは不可能であり、したがって、供述の信用性の問題は常に頭に置いておかねばならない。

 

「自分の仕事を、あれやこれやと徹底的に研究することにおいて、未開人、百姓、田舎者にかなうものはいない。…とかく時間というやつは、いくつもの物事を考えなければならない人々、人類の重要事において、すべてを準備し、導いていかなければならない人々に足りないものなのだ」p369

・時間という資源に着目した立論であり、時間を有効に活用できる未開人、百姓、田舎者がいるならば、妥当する命題である。しかし、現実の未開人、百姓、田舎者の多くは思考を停止しているから、このようにはならない。時間があっても、たいていは、病がかった「知」性の加速が遅々として進まぬのだ。

 

「罪は罪を呼ぶ」p389

 ・いわずもがな。実感することも多いのでは。

 

「みなさん、もはや貴族階級(ノブレス)はないのです。特権階級(アリストクラシー)があるだけなのです」p463

・現代の日本もまさしくこれ。上級国民とかいうワードがネットで人気を博しているのも、そうした意識が浸透している証であろう。しかし、上級国民であるから「そのように扱われた」ということは、そうである場合とそうではない場合がある。司法の多くは、そうではないが、政治の多くはそうである。例えば、飯塚幸三氏は、そうではないし、職域接種は、そうである。この区別は重要であると思う。しかし、ネットのエモーショナルな反応を見る限り、大衆は、この点に気が付かない。そうあるべく、教育を施されてきたからであろう。一億人総白痴化は、テレビではなく、文部科学省と政治家によって、すすめられた。ときどきある年寄りの「最近の若い者は勉強足りトラン」に対する批判の一つは、そのような制度をつくったのは年寄に他ならないということである。

 

 

 

 

 

4.補足

 作中の小切手の偽造は、わが国においては有価証券偽造罪(刑法162条1項)の問題である。作中では、偽造罪が被害者の告訴が必要な親告罪であるとされ、また、「民法における偽造罪の本質とは、他人に損害を与えること」であるという記述がある。したがって、親告罪であるか、刑法の問題か民法の問題か(これは「罪」としている以上当時のフランスにおいても刑法の問題と思われるが)、そして、損害の発生が要件になっているかという違いがある。

 ルールとは、変動的であることを教えてくれるよい例である。・・・と思ったが、実際には以下のような思考になる点を法律に疎いために見落としている可能性があると思われた。

 すなわち、原文は不明であり、また当時のフランス法は存じ上げないが、現在の日本に置きかえて整理すると、民法が出てきているのは、民事上の不法行為に基づく損害賠償請求権が訴訟物であるためであろう。また、有価証券である小切手の偽造という刑法に反する行為は、違法な権利「侵害」行為があったと主張する文脈で出てきたのであろう。そうすると、現在のわが国に置き換えれば、損害発生の点は偽造罪の成否の問題ではなく、権利侵害、その金銭的評価の問題に収れんするものと思われる。