痴の巨人、シェイクスピアを読む~マスベス~
1.経緯
人生最後のモラトリアムの時期にシェイクスピアを手に取った。なかでもこのマクベスは、シェイクスピアの4大悲劇のうちの一つとされており、また、コードギアスの種本という噂もあったことから従前より個人的に強い関心を持っていた。そのため、シェイクスピア第一弾はこのマクベスから感想文を記すことにした。
なお、訳者は多々の選択があったが、私が長らく角川の株主であったことに加えて、日本語訳において原文のようなリズミカルでウィットのきいた文章を実現しようと工夫が相当に凝らされていると評判であった河合祥一郎先生の者を拝読した。河合祥一郎先生のシェイクスピア訳はすべて購入しましたが、結論から言うとこの選択は正解であった。
河合先生訳をお勧めいたします。
2.概要
凡庸な男であるマクベスがピカレスク的生き方を唆され試みた結果を描いたもの。
3.名フレーズとそれに対するコメント
暗闇の使い手は人を破滅させるためにしばしば真実を告げ、つまらぬご利益で信頼させ、土壇場で裏切る p20
・古今を問わず、典型的な詐欺的手法は、一旦の成功を約束し、それを実現することである。人は、このような経験をすると、心理的に、次第に思考を放棄し、妄信する傾向がある。本来的に、人間の大部分は、自らのことを自ら決定することに対して躊躇を覚えるからである。すなわち、人は、失敗したときのリスクをすべて引きうける覚悟がなく、また、成功に至るまでの思考をする労力を厭うのである。そのような現象をたったのワンフレーズに集約したこのセリフは名セリフ中の名セリフといってよいだろう。DUO3.0の例文よろしく、暗記しておきたいところである。
カンバランド皇太子だと!この一段に俺はつまずくのか、それとも飛び越せるのか。
行く手を阻んでいるからな。その火を隠せ、星々よ、わが胸深くの暗い野望を照らし出すな。
手のすることを、目よ、見るな。
だが、やるのだ。
やったら目も覚えて見たがらぬことを。 p25
・マクベスの人間味あふれるシーンのひとつ。行動と思考は、分離したものであることのコロラリーとして、行動の実際と認識、認識を通じた思考というのは可分である。例えば、屏風の裏に人がいると知らずに屏風を向かって拳銃を発砲することと屏風の裏に人がいると認識して屏風に向かって拳銃を発砲することは、その行為をする者の認識の上では根本的に全く異なった抵抗感を示す。しかし、その者の行動としては同一である。このように行動それ自体は、事実として一つであるが、それに対する第三者の評価は変わるし、その者のおける評価も変わる、そういうものがある。この現象を逆手に取ったのが現代における組織的詐欺行為である。これは、個々人の行為それ自体は、各人が抵抗感のないレベルにまで分割され、また、抵抗感のないように認識させるように仕向ける。しかし、犯罪の部品として相互に機能する各人の行為を統合すれば、立派な犯罪行為を組み立てることになる。この点、サイコパスというアニメにおいても、この視点で描かれている部分があるため、イメージがつかない方はぜひとも視聴をお勧めする。
TVアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス 3』公式サイト
(夫人)
さっきまで身に着けていらした希望は?
酔っぱらっていたの?
そのあと眠ってしまったの?
それが目覚めてみると、青ざめて、自分の大胆なふるまいにおじけづくの?これからはあなたの愛もそんなものと思いましょう。
勇敢な行為をする自分、
こうありたいと願う自分になるのが怖いのね。
人生の華と思い定めたものがありながら、自分を臆病者と思って生きるのですか。
やるぞと言いながら、できぬと言う。
まるで諺ね。
魚は食いたし、濡れたく無し、という。 p36
・鬼嫁。しかし、出世を望むなら鬼嫁の方が向く人もいるであろう。お尻ぺんぺんされないと本気を出せない手合いはいつの時代もいるものである。
(夫人)
絵に描かれた悪魔を怖がるのは子供の目です。 p47
・この視点はまさしく炯眼ですね。
(門番)
それゆえ、大酒は、色事に二枚舌を使うと言えます。
その気にさせて。だめにする。
むらむらさせて、ふにゃっとさせる。
突っ張っといて、がっかりさせる。
立たせておいて、立たなくさせる。
結論としまして、二枚舌で眠らせ、よう、この嘘つき野郎、よう、よう、と用を足して、しゃーっと出ていきます。 p51
・さてさて。何のことでしょうね。
(マクベス)
こんなことが起こる一時間前に死んでいたら、
恵まれた人生だったと言えたのに。
たった今よりこの世には本物がいなくなった。
すべてはまやかしだ。誉れも徳も死んだ。
命の酒は飲み干され、この丸天井の下に残させれたのは、語るに足りぬ滓ばかり。
p55
・マクベスというやつはなんて人間臭いのでしょう。こういうところがマクベスを一押しするゆえんでもあります。
(老人)
悪を善とし、敵を味方とする人たちにもお恵みがありますよう。 p62
(マクベス)
時よ、出し抜きやがったな、陰惨なたくらみがこれでおじゃんだ。
迅速に検診をしても、行動が伴わなければ何にもならぬ。
これからは、心に浮かんだその瞬間に手を動かすことにしよう。
今すぐにでも、思考を行動で仕上げるべく、思ったらやるぞ。
p103~104
・陰惨であると自認しているところが人間臭い。彼の破滅は、彼がサイコパスではなかったにもかかわらず、サイコパスであるかのようにふるまった点に起因すると思います。彼の人間らしさからくる感情を素直に対処していれば、「こんなことにはならなかったんだよぉっ!」(松田優作の蘇る金狼参照)
(マルカム)
朝が来なければ、いつまでも夜だ。
The night is long that never finds the day
p125
(マクダフ)
あれこれ言うのは結果が出てからにしましょう。 p137
・行為と認識というテーマを反映したフレーズ。三島先生の作品においてもこの話はよく出てきます。
(マクベス)
※マクベスがマクダフらに攻められているとき、王妃である妻がなくなったことを受けて、言ったセリフ。
何も今死ななくてもよかったものを。
そう聞かされるされるにふさわしい時がもっとあとにあったはずだ。
明日、また明日、そしてまた明日と、記録される人生最後の瞬間を目指して、時はとぼとぼと毎日を歩み刻んでいく。
そして昨日という日々は、阿呆どもが死に至る塵の道を照らし出したにすぎぬ。
消えろ。消えろ。
つかの間の灯火!
人生は歩く影法師。
哀れな役者だ、出番のあいだは大見得を切って騒ぎ立てるが、そのあとは、ばったり沙汰やみ、音もない。
白痴の語る物語。
何やらわめき立ててはいるが、何の意味もありはしない。 p140
・「人生は歩く影法師」という部分。これを実感するのは、マクベスのみならず我々の大半も、その黄昏時になってからというのが相場なのでしょう。みんな夏休みの宿題を後回しにしすぎなんでしょうね。
(マクベス)
俺に言葉はない。
ものを言うのはこの剣だ。
悪党、その血生臭は言葉で言い表しようがない。 p146
・最後の最後に男らしく覚悟を決め、マクベスは散ります。
マクベスは、女から生まれたやつに殺されないと魔女に言われていましたが、マクベスを刺したマクダフは、帝王切開により生まれていたいため、女から生まれたわけではなかったというのがオチです。なお、河合先生の注釈によると、この時代、帝王切開で生まれるということは母確実に死亡するということを意味し、このような暴力性のある生まれ方はより男性的であるということの象徴でもあったようです。
痴の巨人、三島を読む②~絹と明察~
1.経緯
滋賀県浮御堂へ小旅行をするのに合わせて、拝読した。読書と旅行を結び付けることによって、一定期間のうちに読み上げるというモチベが発生するし、旅行先では一定の目的意識をもって行動することが可能になる。
2.内容
おやじと子という関係性を企業へ投影した形で描写したもの。
3.名フレーズ
感謝恩謝なんていう自発的意思を少しでもあてにすべきじゃない p288
(1)温故知新
このフレーズは、主人公の駒沢が会社経営のノウハウを語る際、人には感謝恩謝の気持ちがあるものだと述べていたことを岡野が批判する文脈で述べたものである。
これと関連して、興味深い点を指摘できる。
非契約のディストピアでは、かつては社会的信頼を築き補充する仕事が占めていた空間を、確かさを求める監視資本主義の活動が満たし、かつての人間の仕事は、保証された結果へ向かう行進を阻害する不要な障害として再解釈される (監視資本主義・p385)
つまり、監視資本主義という一昔前に流行ったオカルト本において指摘されていた危険そのものを岡野は口にしていたという点である。
三島先生の小説は、1964年ごろに発表されていた。当時では、現在のような情報技術の発達に伴う管理社会の危険はまだ顕在化しておらず、むしろ、岡野のような合理主義を推し進める者らにとってはある種の理想的な制度として夢想されていたのだろう。
しかし、小説の後半で岡野が後味の悪さを感じるように、このような合理化が必ずしも理想的ではないのではないかという点は、本書においても指摘されていた。
要するに、監視資本主義の警鐘は、50年も前に三島先生がすでに企業小説という私のような大衆にも理解しやすい形で鳴らされていたということである。
(2)制度形成の考察
ところで、制度形成におけるプロセスで遊びは多少、必要であるが、FIT法はいささか奇妙である。
FIT法は、設備ではなく事業に着目して認定等を行う。
そのため、発電用の土地を追加することも事業の変更といいうる。
事業の変更には、法10条によって、但書の場合を除き、認定が必要である。
例えば、飛び地で発電し、買取価格が高い昔の認定地を経由するというテクニックを用いる際に、これが法10条但書にあたるのか否かは認定の有無にかかわるため、かなり重要なことになる。
(再生可能エネルギー発電事業計画の変更等)
※2経済産業省令とは、電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法施行規則のことをいう。
法10条に係るところでは、規則のうち、8条及び9条が指摘できる。
飛び地の追加については、従来、規則9条1項各号の変更には至らないとして、「軽微な変更」扱いをされてきたため、結局、法10条の認定は不要という扱いをされて来たのだと思われる。(法9条条第二項第三号から第六号にあたらないという解釈もありうるが)。
ただ、不思議なのは、規則の、例外規定の内容が特定の場合を除くというネガティブリスト方式になっていることである。
これは、通常、規制緩和を実現するために用いられる技術(ex派遣法)であるから、例外を認める規定にこのような定め方をすることは、認定を原則不要にするようなものであろう。
なぜこうしたのか。
人の自由意思が介在した結果なのだろう。
(軽微な変更)
そのほかの名フレーズ
ハイデッガーのいわゆる「実存」の本質は時間性にあり、それは本来「脱自的」であって、実存は時間性の「脱自」の中にある。 p76
人生には、何かの加減で、めいめいがトランプの札をもって、そうやってめぐりあうことがあるものだ p90
大勢の人間の幸福が、若い君の双肩にかかっているのです p154
風景のこころをえいと握っとる絵を見て、人の心をえいと握る自信をつけますんや p174
冒険と愛があったら、他に何が要ろう p177
・かっこいいね。
小さな都市では、有力者の「精神的肥後」やちょっとした寄付行為が大いに物をいう p217
悲しみよりも、感謝恩謝のほうが、民衆にとって本質的なもののはずだから p230
争議を真っ向から「自然への反逆」と規定した p264
痴の巨人、バルザックを読む⑦~娼婦の栄光と悲惨 悪党ヴォ―トラン最後の変身~
1.経緯
幻滅の続編であるため。
2.内容
文学青年のパリにおける挑戦と死。
3.名フレーズ
奇妙なことに、ほとんどすべての行動的人間は前世から定まった「宿命」に従うのであり、同じように大多数の思索家は、思いがけない僥倖である「神慮」に従う。 p101
・宿命論者が行動的人間というのは面白い。宿命に従うならば、行動を積極的に起こす必要があるか疑問になるだろう。しかし、ここでいう宿命とは、消極的なものではなく、行動に伴う結果それ自体が宿命によって決定づけられるにすぎないということなのだろう。この点、サザンの次の指摘が妥当する。
たぶん本当の未来なんて知りたくないとアナタは言う (マンピーのG★SPOT・桑田佳祐)
これは宿命論を前提にしつつも、それがわかるとしてもわかろうとはしないだろういう。要するに、行為の前に結果を知ることを拒んでいる。
良きギャンブラーは一振りのサイコロに全てを賭ける(構造と力・浅田彰)
も、その精神の発露であろう。
焼きつくような陽ざしの道を行く時には、誰も美しい花を摘むために立ち止まったりはしない p104
・雨道で傘となってくれる人こそ、伴侶にふさわしい。ところで、日傘はどこだ?そいつがあれば、花も摘めるんじゃあないか?
我々の世界の2,3の実力者によると、金で手に入るのは人間だけです。思いがいけないことに、金では買うことができないものがいくつもあります...!偶然も金では買収できない。・・・自分のためになる偶然と、ためにならない偶然というものがあります。 p163
・営業トーク。人間も金では買えない。人間の行動が金で買えるだけである。
ニュシンゲンはまるで自分の両足が邪魔くさいとでもいうように、サロンを歩き回った p192
・面白い表現。
奴は小さなことをやるにも大金を振り撒くので、自分で大物だと思っているんです。言葉をさかさまにしてみてください。天才はわずかなもので大きな難問を解くでしょう。 p215
・キーエンス〈最小の資本と人で、最大の付加価値をあげる。〉
・ニコラ・テスラ〈「天才とは、99%の努力を無駄にする、1%のひらめきのことである」〉
・時々、タクシーとか飲食店で「釣りはいらない」という輩がいる。こいつらは間違いなく、投資家でもなければ事業家でもない。1円にも血みどろの結果得られた価値があると知っていれば、到底できる所業ではないから。
(パリは)人間は軽んじるが、その人間の金は軽んじない。 p223
・割り勘の飲み会で必ず人より多くジョッキ開けようとする奴のことだよ!比例按分にするぞ、たわけ!
「結局は『口の堅さ』ですよ!・・・あんたにはそれがある。それからぐっと下るとしても大事なのは『誠実さ』です」・・・(カルロスは)これから長い間の秘密厳守を守らせる保証となるはずの希望を一つ投げた。 p226
「年をドった女は、若い女より、危険だよ」 p253
「司法」などというものは、たえまなく変わる個人の集団による理念でしかなく、「司法」の良き意図とか記憶力などというものは、それら個人と同じくきわめて変わりやすいものなのだ。 p259
ニュシンゲン男爵のような金持ちは、他の人間以上に大きく金を失うこともあるが、また馬鹿を曝しているような時も、金儲けの機会をつかむ p266
・(経済的な意味における)成功者は運とチャンスを逃さない。
金銭しか頭にない人間の頓馬さかげんは誰もが知るところだが、それも結局は相対的なものに過ぎない p290
・損得だけってのがさもしいという感覚を忘却しつつある民が増えてきている気がしますね。街にあふれるキャッチコピーもそんなの多くないですか?得する、儲かるって。もっと夢見させてくれよ(笑)
・・・客席がいっぱいのときも、開幕十分前に手に入れようと思えば、ボックス席一つは常に残されていた。・・・このボックス席は、・・・パリのオリンポスの神々の気紛れ目当てに、あらかじめ天引きされる税金みたいなものだった p312
・コレ、今でもよく観察できますよね。最初に考えた人は商売上手。
「30で死ぬ方がいい」・・・「どんな日にも、きれいな女というものは、幕の閉まらないうちに芝居小屋を出るものなのよ!」 p549
・30歳超えたら余生みたいなもんよね。
感覚の奴隷であるすべての人間の例にもれず、反省はなかなか訪れなかった。詩人と行動的人間の違いがそこにある。一方は、感情に身を委ね、それを生き生きとしたイメージに再現しようとする。彼は事終わってからしか判断できない。それにひきかえ行動的人間は、同時に感じ判断する。 p569
司法官たちは軍隊や行政の世界での昇進と同じように、昇進を目的に抜きん出ることを考えている。 p613
・瀬木先生の本を読む限り、今の日本も似たようなところがある。
(ヴォ―トラン=カルロス=ジャック・コランは)決断することと一瞥を投げかける速度が同じであり、思考することと行動することを一つの稲妻のように走らせて・・・ p643
・理想形。行動即ち思考、思考即ち行動。
真実といわれるものの不遜さは、芸術に禁じられた仕組みにまではびこることになる。それほどに仕組みは、作家がそれを緩和し、刈り込み、切り落とさない限り、本当らしさを欠くか、それともつつましさを失わせる。
この世の中でいろんな身分になってみたって、ただの外見に過ぎんさ。現実とは頭の中身のことなんだ! p787
・認識を通じた現実しか我々の中には存在せず、それが俺たちが言うところの現実なのであり、その現実は、各人事に存在することとなる。
どんな女も、愛されているのは自分だけという思いに抵抗することはできない。「あなたにはもうライバルはいないのです!」これが冷たい嘲笑家の最後の文句だった。 p824
・ちょっと笑ってしまった。
痴の巨人、浅田を読む~蒼穹の昴~
1.経緯
財界人がおすすめしていたため、投資会社に入社した年に拝読。
2 内容
2人の男が火の玉となって国を動かそうとする話。
3
1
「陰陽掌を反して乾坤を定む、か。…」p67
「龍頭は老成に属す」 p122
「ああ、俺は昔からこうなんだ。初めはどうもその気にならんのだが、だんだん力が湧いている。つまり、君らは馬で、俺は騾馬みたいなものさ」 p158
「・・・科挙第一等の状元たる者、すべからく不動の星でなければなりませぬ。そう、あまたの星々を統べる、すばらしき、昴でなければ」 p184
「・・・西洋の画法はひとえに事物を描写するのみならず、芸術家の心に映りたる印象を、映りたる様に絵筆に託すのである・・・」 p273
2
「いいかチビ!できねえなんてことは、俺の前で二度と口にするな」 p65
「・・・それでもわしは信じたいのじゃよ。この世の中には本当に、日月星辰を動かすことのできる人間のいることを。自らの運命を自らの手で拓き、あらゆる艱難に打ち克ち、風雪によく耐え、天意なくして幸福を掴み取る者のいることをな」 p163
3
「・・・人殺しなんて・・・、あいつには似合わねぇよ」 p131
「完全を百とする。百に一つ届かぬは九十九だ。・・・永遠を意味する。」 p225
4
「・・・国は必ず自ら伐りて、然る後に人これを伐る」 p77
2つの国家命令は当然矛盾する。 p140
痴の巨人、太宰治を読む②~人間失格~
1.経緯
学びの必修科目だったため。
やまいがかった「知」性を加速させるため。
寺山修司等他の作家の理解に必読であったため。
2.内容
太宰治が彼自身について書いた話。
3.名フレーズ
人間が自分という人間に対して信用の殻を固く閉ざしていた p23
・疎外感、余計者感は太宰治作品のキーワードだと思っています。これは、その現れの一つでしょう。
女は引き寄せて、突っ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪険にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女についてのさまざまの観察を、すでに自分は幼年時代から得ていたのです…この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。 p30
・女についての考察。彼は、女が機嫌が悪いとき、甘いものをやれば機嫌が直るとも述べています。このライフハックは、現代でも、学校や職場でも広く実行されています。
「ふふ、どうだか。あなたは、まじめな顔をして冗談をいうから可愛い」
じょうだんではないのだ、本当なんだ、ああ、あの絵を見せてやりたい
p86
「冷汗、冷汗」
と言って笑っただけでした。
p91
・言わないんですね、余計ないことは。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きてきたいわゆる「人間」の世界において、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。 p134
・いかにも。
4.コメント
ブルジョワ階級出身でありながら、それを軽蔑しつつも、依存する彼のスタイルは、子供じみているようにも見える。しかし、それなのに人はなぜか惹かれる。やはり、世渡り上手だったのだろうと思う。
痴の巨人、三島を読む~金閣寺~
1.経緯
名作に触れるため。初めて読んだのはいつか覚えがない。おそらく高校生のときであろう。ただ、丸源の川本源司郎氏から「金閣寺に住みたいと思って小倉に豪奢な日本家屋を立てたが、数日で飽きた」という話を聞いた後、読み直したくなったことは間違いない。その意味で、源司郎インスパイアである。
市川雷蔵が主演をつとめる映画版を観たのは、陸軍中野学校5部作を観た後のことである。陸軍中野学校シリーズは、日本のスパイもの映画の最高傑作であるといっていいと思う。舞台のスケールは大きいし、筋書も陳腐でない。ガキっぽい感情を措いて、淡々と任務をこなすさまがmatureである。今日の日本映画はなぜ面白くなくなってしまったのか不思議でならないが、その要因の一つは大衆迎合・短絡的な商業主義に流されて、ウケのよさそうな話ばかりになっているからだと思う。ウケを狙うというのは、悪いことではないが、新たな市場・発見を見出させるような創造性がなければ、トップにはなれない。
2.内容
見習い坊主が金閣寺に火をつける話
3.名フレーズ
人の苦悶と血と断末魔の呻きを観ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。俺たちが残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。 p113
(由良川の河口、すなわち日本海を目の前にして)ふと私は、柏木がはじめて会った日に、私に言った言葉を思い出した。我々が突如として残虐になるのは、うららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木漏れ日の戯れているのをぼんやりと眺めているような、そういう瞬間だといったあの言葉を。… p204
この後、彼は金閣寺を焼かねばならぬと思い立つ。
・店にいくと、不思議なほど横柄で冷酷な態度に出る客がいることがある。その相手方は、往々にして、その対をなす態度を示している。お客様は神様だという命題が一時期世にはびこった。経営コンサルを自称する者や成功した経営者が喧伝した結果である。この命題に甘えた団塊の世代を中心とする老人集団は、自らのインポテンツを補うために怒りで性欲を満たし、カスハラを生み出した。カスハラの被害者は、虐待された児童が虐待する側に成るがごとく、カスハラを行う。そうして、今、社会的にカスハラが伝染病のごとく問題となり、やわな人間は精神を病み、結果的に、無職に至る。企業は労働力を失い、国は納税者を失う。その他の者の負担において、彼ら彼女らは養われる。国益が損なわれるこの一連のメカニズムの出発点を作り出した者を売国奴という。
(柏木が女の気を引くためにわざと路上で崩れたことについて)…私はごく青年らしい感じ方をしたのだが、彼の哲学が詐術に満ちていればいるほど、それだけ彼の人生に対する誠実さが証明されたように思われたのである。 p121
・これについては、バルザックの作品における下記の記述が妥当する。
「…何らかの形で肉体的な欠陥を背負うあらゆる人間にとってとるべき策は2つしかない。人におそれられるか、この上なく優しくなるかである。大部分の人間がふつうするように、二極の間をふらふら行ったり来たりすることは、彼らに許されない。第一の場合、才能、天才、あるいは力が関わる。恐怖を覚えさせるのは、悪の力である。尊敬させるのは天才、不安にさせるのは才気の豊かさである。第二の場合、彼らは愛され、女性の専制的愛情に実に巧みに取り入り、肉体的な完璧な人間よりも人を愛する術に長けている」p139(バルザック・セザールビロトー)
つまり、柏木の態度には、バルザックが言う二極性が現れている。なお、念のために補足すると、柏木は内反足である。そして、三島先生は、この柏木の態度を主人公を通じて、「誠実」と評価したのである。確かに、とるべき策をとっていたのだとすれば、この点においては誠実あろう。
剥げた金箔をそこかしこに残した豪奢な亡骸のような建築。近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮かんでいるあの金閣が現れたのである。 p134
(柏木は、南泉斬猫の話を持ち出しつつ、次のように言った)両堂の僧が争ったのは、おのおのの認識のうちに猫を護り、育み、ぬくぬくと眠らせようと思ったからだ。 p231
この後、行為と認識という切り口を用いつつ、柏木は、美について語った。
4.小括
三島作品に関しては、おびただしい数のfreakたちがいるため、私のようなにわかが特に述べることは何もないが、行為と認識というテーマは、数々の作品、エッセイで言及されている。そして、衝撃的な自決に至るまでの過程から氏の思想に、相当強固な一貫性が存在していたことは疑う余地がない。本日は終戦記念日であるが、1945年8月15日に、戦争が残した物、残された者、新しく始まったもの、それらが、今日では想像もつかない混沌とした形で同時に存在した時代が確かにあり、また、今となっては、確かに忘却されつつある。人は皆、大なり小なり、健忘症に陥っているためであろう。繰り返される歴史がそれを証明する。これは、皇太子向けのつくられた歴史をもってさえも、証明できる事項である。だからこそ、カンフル剤として、戦後、残されて苦悩した氏の、一つの思想形態を感じることが価値あることに思われた。
痴の巨人、バルザックを読む⑥~幻滅 メディア戦記~
1 経緯
実質的にゴリオ爺さんの続編なので、その流れで読みました。バルザックのヴォ―トラン三部作は、ゴリオ爺さん⇒幻滅⇒浮かれ女盛衰記の順に進んでいくからです。ラスティニャックやリュシアンは、ヴォ―トランの引き立て役なのです。
2.内容
パリでの成功を夢見る若き詩人が様々な挫折をするが、ある神父の手ほどきによって、復活するという話。
3.名フレーズ
(上)
駆け引きにおいては、議論ができるかどうかで、自分の利益を守ることのできる有能さが商人に備わっているか否かが明らかになる p22
寛容な人間は商人として一流になれない。 p23
・お偉方は皆、汚いパンツを家で洗っている。事業という装置を通じて合法的に人から追いはぎをする人物もいる。商人の性根はその程度のものであるから、大企業創業家の一族に何か倫理的ないし道徳的なことを期待するべきではないし、物おじをする必要もない。逆にそういったバックグラウンドがないからといって卑下することもなければ、非難するべきでもない。したがって、小室圭を取り巻くスキャンダルは、端的に言って、親子そろって汚いパンツの洗い方が少しへたくそだっただけのことだと思う。彼らの一族を非難する資格は、上流階級を自認する人々にこそ、ないのではないか。
田舎で美人と評判の女も、パリに場所を移してみれば 一顧だにされない。なぜなら、その女が美人だといったって、「あばたの国ではおかめも美人」という意味において美人というに過ぎないからだ。 p210
本物の才能とは常に気立てがよく、無邪気で、開かれていて、気取らないものである。p287
歳月人を待たず、花嫁もまたしかり。 p331
分かるだろう。何もかもが偶然なんだよ。一番しょうもないのは、才気があるのに一人っきりで家の片隅にこもっていることだよ。 p364
・一番惜しいことはなにもしないことだ。それは、チャレンジをした方が後悔しないというのではなく、そういった主観的感情の問題以前に、客観的に、結果が偶然の産物として我々の目の前に現れるからだと僕は考えている。念のために申し上げると、才気があるかは、主観的に決めればよい。
(下)
「ぼくんちの粗末な昼食に来てくれる時、早めにいらっしゃい。ホイストのやり方を教えてあげます。われらが栄えある故郷アングレームの名折れですから。タレーラン氏の言葉を使うならば、もしこのゲームを知らないと、老後は寂しくなりますよ」p538
パリの商売の愚かなところは、何か一つ当たったら、次はその逆を狙うべきなのに、二番煎じにこだわるところだ。 p556
「そういう幸運というやつは、」‥「馬鹿どもや無能なやつらには訪れてくれない。ボナパルトの運命を幸運などと呼べるか?イタリア遠征軍の指揮をした総司令官は、ボナパルトの前に20人いた」 p592
「定期的に後悔を繰り返すことを、ぼくは大きな偽善とみなしている」(ダルテスの言葉)p604
美点も栄光もひきはがされた姿を社会の前にさらすまいと人は自殺する p845
・この作品に限定されず、バルザックの作品ではたびたび自殺についての考察が登場する。いや、思い出すだけでも、例えば三島先生の金閣寺はまさしく死に方を探求した作品だったから、かなり多くの文学作品がこのテーマを扱っているのだろう。僕は、文学青年ではないため、正確な数字がよくわからないけれども。大切なことは、彼らには彼らの数だけその答えがあることだと思う。ダイバーシティなど当然のことをあえて標語を掲げること自体恥ずかしい話だ。
「要するにあんたは、1万か1万2千フラン(今でいうと4千万円くらい)の金がなくて自殺しようとしているわけだ。まるで子供だな。・・・運命というのは本人が自分の運命にどれくらいの値段をつけるかで決まるんだよ。ところがあんたときたら、自分の将来に1万二千フランの値段しか付けないとは。」…「(皇太子向けの嘘の歴史ではなく、本当の原因を集めた歴史の一例としてリュシュリュー枢機卿の話を挙げたうえで)偉い人というのは、みんな人でなしだよ」… カルロス神父(=ヴォ―トラン)の野心家向け歴史講義 p856以下
・このロジックによれば、例えば、1億円の借金で自殺する人間は自身に1億円の価値がないことを自認することになる。自殺を考える際、その原因たるXとあなた自身の価値は較量せねばならない。往々にして、あなたはXを乗り越えるべきだと結論付けられるのではないだろうか。たかがX。これがキーワードだと思う。
「道徳は法律に始まる。宗教で片付くなら、法律などいらん。宗教心の厚い国民は、あまり法律を持たない。」 p862